幸せの実感について
ついに新型コロナウイルスにり患してしまい、自宅療養を余儀なくされています。
さすがに、読書をはじめとした頭を使った能動的な活動は厳しく、漠然といろいろなことを考えるのみでした。
まず、有難いと思ったのは、自分は日銭を稼ぐ商売ではないので、数日働かなくとも家族ともども生活できること。そして家族と生活しているので濃厚接触問題はあるにしても、生活をフォローしてもらえるし、孤独感もないこと。
つくづく、このように幸せと思える感覚を低くできれば幸せになりやすいと思うのです。幸せの感覚は他人の感覚とは関係ありません。自分が幸せと感じればよく、当たり前ということもありません。自分では勝手に「無(当)然」として自分を戒めています(持戒)。
ヤクザ映画は社会の縮図
少し症状が軽くなると、受動的に脳を使う余裕がでてくるので、オンデマンドのテレビでヤクザ映画を見ていました(今も)。私は昔からヤクザ映画が好きで、特に仁義なき戦いの第一作目です。(ヤクザ映画といえば高倉健で、俳優としては私も高倉健さんが一番好きなのですが、作品としてはこれです)。
なぜ、ヤクザ映画が好きかというと、ヤクザ映画が世の中の実情を一番よく映し出していると思うからです。自己保身と自己顕示欲の塊の守銭奴の親分が甘い言葉で無知な若者をてなづけ、自分の都合のいいように利用する。自分の子分が成長し、自分が追い越されそうになると、うまいことを言って、子分同士を揉めさせて抹消し、自分だけは生き残ろうとする。
これって、ヤクザの世界だけの話でしょうか?これに一番近いのは政治の世界。派閥内抗争などは仁義なき戦いそのものだと思うのは私だけでしょうか?私が在籍した税理士業界(私は今もこの世界におりますが、私は一人で活動してますので違います)も似たような光景をみたことがあります。
普段は、お客様のためといいながら、実際は保険挙績成績優秀事務所に送られる懸賞旅行目当てで、所員相手に、「今年も俺を○○(旅行地)に連れってってくれよ~」と迫る所長税理士をみたことがあります。これほど破廉恥という言葉がふさわしい税理士はいないでしょう。最近のBMと大手損保の不祥事のニュースを目にして思い出してしまいました。
正範語録
幸せについて考えることに戻りますと、正範語録というものを思い出しました。いつ、だれが残したものかはっきりしないようですが、これは私の心にしみました。全文は紹介できませんが、①実力の差は努力の差②真剣になれば知恵がでるが、中途半端やいい加減だと愚痴や言い訳。③本気でやれば大抵のことはできるし、面白いし、誰かが助けてくれる。
今自分に足りないことは何なのか、これを読むとわかるし、本気でやらないと幸せを実感できないことがわかります。